プロの格闘家と一般人の違いは「リング上で死ぬ可能性がある事だ」と強く述べた上で、朝倉選手は ”死” について話している。
これは僕に限ったことかもしれませんが、僕にとって、死とはご褒美です。なぜなら、生きているとその為にしなければならないことがあって、それがつらいと感じるからです。
朝、起きなければいけないし、起きたあと色々準備をして、働いたりしないといけない。僕は今楽しく生きていますけれど、それでも生きているだけでやらなければいけないことがあるという点は、変わっていないですね。
でも、死んだら全部終わりですからね。死んだ後のことを考えて何かしたりする人もいると思いますけど、死んだあとのことは自分には関われない事なので、本当におしまいです。
(中略)
僕はリングに上がったら死ぬかもしれない。でも、それは死ぬためにやっている訳じゃない。生き残るためにリングに上がっているんです。その挑戦の結果死ぬことになったら、仕方ないことだと思っています。
(中略)
ではその恐怖をどう乗り越えるかというと、まさに「死ぬ気でやる」ということですね。開き直っちゃう。だから、死ぬことも怖いし、負けるのも怖いと思うようになると戦えなくなってしまう。
本当に死んでもいいと思っているからこそ、心の底から開き直れるのだと思います。死んでもいい、どんな怪我をしてもいいから、リング上では死ぬ気でやろう。その気持ちが背中を押してくれる。
開き直ると、僕は生を感じます。死ぬことを実感するとき、生きていることもまた実感できるんです。
最近「もし自分が今死んだらどうなるんだろうか」と、ふと考える事がある。
自分は独身で子供もいないし、結婚する予定はおろか好きな人もお付き合いしてる人もいない…
親には生命保険でお金は入るし、目標とか情熱を注げるようなことも今のところは特にない…
会社だって自分の後にまた新しい人が来て同じ業務をこなして穴はすぐに埋まるし、別に世界がどうこうなることもない…
このまま生きていてもいずれは親に先立たれ、孤独死するのは目に見えている…
そんなことを考えていると、
このまま生きていて意味があるのか?
とか、
"自分" という存在に意味があるのか?
と思えて、なんだか急に"生" が感じられなくなっていく。
実際、日常で「死にたい」と思うことは何度だってあるし、自分も正直「いつ死んだっていい」と思っている。
だから、この「死」に対する朝倉選手の考え方には、すごく共感する部分があった。
確かに、死んでしまえば色んなしんどいことも頑張らなくていい…
そういった意味では自分みたいなヤツにとっても、死は「ご褒美」なのかもしれない…
けど実際には自殺する勇気なんてあるはずもなく…
窒息しないように息をして、せっせと食料を買うためのお金を稼ぎ、餓死しないように食事をして、排泄をして睡眠をとる。
今の自分の生活を因数分解していくと、結局残ったのはこれだけ…
単に生命の維持に、最低限必要な行動を毎日繰り返しているだけだ...
なんて中身のないスッカスカな人生なんだろうか!
思わず「英語の教科書に出てくる感嘆分の和訳」のように叫びたくなってしまう。
だけどこの章を読んでいくと、僕の「死んでもいい」と朝倉選手の「死んでもいい」は全く本質が異なるものだということに気付かされる。
朝倉選手のそれが戦場に赴く武将のような命を賭した人生への「覚悟」だとするなら、僕のそれは牢屋で死刑執行を待つ死刑囚のような人生への「諦め」…
……もはや一緒にすることすらおこがましい。
別に「世界一になる」とか「有名になる」とか「名前を残す」とか、そんな大それたことじゃなくていい…
「くだらない事でも誰にも真似できないほど極め尽して周りを驚かせる」とか、「周りも見えないくらい夢中になって打ち込んだもので感動させる」とか、「自分にしかできない何かで誰かを喜ばせる」とか…
せっかく縁があってこの世に生を受けたからには、そんなことを1つでもいいから成し遂げてみたいと思う自分が何だかんだいる。
だからこの「死んでもいい」は、いつかそんな ”自分にしかできないこと” が見つかった時、「死ぬ気」でやるために取っておく。